黄金羊のテスト会場

思考の肥溜め

聖域じゃない

 生成AIがイラストレーターの絵を真似することが倫理的に善いか悪いかの話です。結論から言うと僕は悪くないと考えています。そんな雑記です。ここから長ったらしい理由付けが並びますがスキップして結論読んでいただいて構いません。

AIからエンジニアを保護しようと思うか?

 さて現在、生成AIが最も得意にしている分野はプログラミングだろう。ウェブページやソフトウェアの制作などなど、これまでシステムエンジニア(SE)が行っていた業務を瞬く間にこなす未来はそう遠くないだろう。彼らの多くは職を失うだろうが、彼らを保護しようという潮流はほとんど見られず、むしろ作業量が減ると歓迎の色が見て取れる。僕の仕事の研究員もそうだ。そのうち多くの研究者は生成AIの隆盛とともに数を減らすだろう。経営者も。医師も。なんならホワイトカラーのほとんどが。

絵を描く目的は表現である

 上の絵は誰もが名画と認めるピカソの『ゲルニカ』。戦争の苦しみ、怒り、悲しみ、絶望…そんな複雑な感情をキュビズムを用いて一枚のキャンバスに収めた逸品である。これは美しい絵を追求しただけでは到底成しえない。

 絵描きが美しい絵を描くことは前述のエンジニアがコーディングすることと同じで、手段である。確かに、こんなにも簡単に自分が綺麗と思う絵を簡単に生み出されては、今までの基礎練習が灰燼と化した気持ちになるだろう。

 ただ、絵描きの本性はゲルニカではないのか?AIに絵柄を真似されたからなんだ。ゲルニカっぽい絵を生成されても戦争の惨劇を伝えるものにはならない。絵描きたちは人生において死を考えるほど苦しんだことを筆に込めたのではないか?誰にも伝わらない喜びをアウトプットしたかったのではないか?誰も実現してくれなかった性欲を叶えるために描いてるんじゃないのか?だからこそ価値が生まれるし、これからもそこにお金は入り続ける。

AIは目的を持った人間への武器である

 人間、言うは易し行うは難しである。(執筆中)

総論:機械学習は規制されるべきでない

 これまで全ての人の生業はただ巨人の肩の上に立っていただけだ。たったこれだけのことだ。AIはこれを刹那に済ませてしまう機械である。これに敵わないのは万人に共通で聖域があることではない。かつてそろばん名人が電子計算機に折られた時のように。

 ただ風前の灯が吹き消されるのを待っているだけではない。枠から外れた奇っ怪な巨人を作ろうとする気概がある人間が、AIを追い風にしようともがいている。野暮ったいこと言う人間が多数派にならないことを民主主義の中で願ったりしてみている。

儒教のイメージについて【3分スピーチ】

 これは3分間のお題不問スピーチをすることになったのでそれの原稿代わりに書いています。よしなに。まあ手短に言うと、元々年上に従う宗教じゃなかったのにいつの間にか都合のいいように使われて今我々は年上というだけでぺこぺこしなきゃいけない社会になったんだよという話。

 ここ数年宗教と人間の無意識の感情の関連に興味を持ってる宍戸です。皆さん儒教に関してどのようなイメージをお持ちでしょうか?韓国や中国*1・年上が絶対・古臭いもの・・・といったイメージがあるのではないでしょうか。確かに開祖の孔子は紀元前6世紀の人物ですから古臭いのはある意味正しいのですが、教義に関しては今日少しイメージが変わるかもしれません。

 孔子は「仁」が大切だ、と繰り返し説きました。両親や君主や夫*2や友人などの五倫との人間関係に重きを置き、法による善悪ではなく思いやりや他者への配慮による善悪の判断を説きました。礼節が大事、というと決まりきった・儀式めいた行動を強要されそうなイメージがありますが、孔子はその場に合わせて柔軟に対応することを求めていたのです。

 また孔子は「問い続けること」にも重きを置きました。人間の行動が正しいかどうか常に自分で問い続けることに価値があると説いたことから、孔子、ひいては偉い人の思想を無批判に従うことを受け入れることをしませんでした。この辺が聖書のある西洋の宗教と大きく異なります。

 しかし時代が進むにつれて儒教の都合の良い部分が政治利用されるようになると、主君や年上の者を尊び、家父長制を励行する道具に成り代わりました。例として12世紀の朱子学や明治から昭和初期日本の国家神道があります。孔子が人間関係という生ものを重要視していた点と、君主の言うことが必ず正しいという点が最大の違いになります。 確かに軍事主義や封建主義と食い合わせが良く、まるで孔子の言葉を引用しているようで説得力があったため国力の増強には一役買いました。

 そのためいわゆる「儒教」は後世の政治利用されるなど原典と異なる解釈のイメージを内包するようになりました。そしてそれは資本主義による科学の時代にはそぐわないものになっているようだと思います。ここでひとつ原典に立ち返ってあげると儒教のイメージが変わるし、問い続ける姿勢が行動変容や自己啓発に役立つのではないかなあと思います。 以上。

*1:中国発祥ですが韓国にも多大な影響を与えたし、日本人にもめちゃくちゃ影響与えてます。これは儒教を信じてるとか信じていないとかそういう次元じゃなく、東洋人の思考の根底を流れる共通認識であります

*2:ちなみに孔子は「女と子供は扱いが難しい」のようなことを言ってたことから儒教を現代に当てはめる人はマチズモ的な思考にならないように注意。

自分を理解されないというストレス

 独り言です

 だんだん自分が何に対して怒りの感情を持つか分かるようになってきた。怒りに関しては以前このページでも扱ったことがある。人間って理不尽や無力感に対して怒るよねっていう内容でした。

 その中でも僕は怒られたときに多大な怒りとストレスを感じる。僕は怒られるときは大抵、何かを期待されて、それに対するリターンを返せなかったとき。例えば頼まれた仕事を忘れちゃったり、指示された掃除をしなかったり。まあ当然っちゃ当然なんだけれども。

 

 でも僕、本当に何も求めてないんだけどね。

 だからこそ、もっと理解してほしいんだ。僕には人から期待された結果を残す能力が致命的に欠けている。

 

 まず第一に、自分が変人すぎて、自分が喜ぶことをしても相手が喜ばないし、相手自身が喜ぶことを僕にしてくれてもあんまり嬉しくないんだ。人の喜びに共感できない。

 さらに記憶能力がガバガバすぎて、言われたこともすぐ忘れてしまうし、指示されるときに上の空の時もある。決して相手がどうでもいいとか一つも思っていないんだ。

 自分ができないからこそ、僕は他人に対して多くは望まない。だから何も望まないでくれ。あなたの望むものはここにはないんだ。

 

 かといって僕が何もしてこなかったわけではない。僕は幼少期から、他人が期待していない成果を上げることをし続けてきた。というかそれしかできない。

 急に漢字辞典読破したり。誰もやってこなかったデザインのボードゲームを図工の時間に作ってみたり。野球部時代には鈍足極まってたのに盗塁だけめちゃくちゃ簡単に決めたり。自分の学力以上の高校に受かってみたり。誰にもやれと言われずに周囲を驚かせてきた自負と自信がある。

 今の仕事でも「君を評価する基準がない」と言わしめた。僕にとって最高のコメントだね。

 

 そういった中で誰でもできることをできなかったときに必要以上に怒られることが耐えられないのかな、と他人事のように分析してみている。

 自分勝手とよく言われるけれども、僕にとっては世界中のみんなが自分勝手なのだ。君は自分が喜ぶことをやったら他人が喜ぶ人で幸せね。僕は現世をそんな目で見なくては自分が持たない。

 

 もちろん、状況によっては頑張るが、限界はすぐに来てしまう。いや、限界が来る前に僕は逃げ出すだろう。自分が壊れるのが怖いので。

 

 僕はみんなの二番目に好きな人でありたいと思っている。理由はいくつかあるが、最大の原因はここにあるんだ。「たまに興味深いことするひと」はどうやっても変わり種であり、大好物になりえない。安定した成果をくれる人を君の一番に据えるべきだ。

 

 誰も読まないこの文で、誰かが僕を理解してくれることだけを求めたい。

安楽死はそのうち不正解

物事は多数決で決まる

 世の中は多数決でできている。多数決で決まったことを「正解」と呼ぶことにしよう。たとえどんなに正しいことを言っていても、多数決で票を集められなかったら「不正解」となる。ここまではOKだろう。

安楽死する安楽死

 そこで表題の安楽死についてなんだけれども。現状、安楽死に関する世論はどこの国でも大概五分五分か、やや安楽死賛成に偏っている。日本の厚生労働省の調査では約57%が安楽死賛成であるという調査結果もある(p28、一般国民の項)。では安楽死は正解ではないか?と思うかもしれないが、単純な話ではない。

 では国民の57%の賛成をもって安楽死を認める法案ができたらどうなるか。安楽死に賛成した人間は安楽死によって徐々に数を減らしていく。安楽死に反対する人は残り続けるとする。有権者の14%にあたる人が安楽死によって投票権を失った時、安楽死による世論は逆転する。つまり安楽死が実行されればされるほど不正解に近づいていくという不思議なパラドックスがある。これを仮に破滅する論理と名付けておく。流石に14%の人が死ぬというのは相当時間のかかる話ではあるが、絶望的な状況になっても死を選らばない人種が生き残っていくのである

 現段階でちらほらと安楽死を認めている国は存在しているが、どれも状況が限定的であるし、歴史が浅く定着しているとは言い難い。安楽死という概念は長い年月をかけておだやかに安楽死していくのである。

 僕も安楽死に関しては正しいと思っている。人間の人間たるゆえんは明晰な思考力であり、その思考力が失われる脳死植物状態認知症、重度の統合失調症、重度の薬物依存症は死んでいるといって差し支えないと思うし、自分がもしそういうようになっていたら安楽死してほしいと願う。ただ安楽死を認めるといずれ自分が少数派になってしまう。悩ましい。

 それの妥協案が条件付きでの安楽死の許可なんだろうね。末期がんとか脳死とかALSとか。でも自分がもうほとんど死んだような状態で、死にたいとも意思表示できなくなったときに、条件付きだと安楽死させてもらえる保証なんてどこにもないんだよね。

至る所にある「破滅する論理」

 実は他にも似たような現象が起こりうるシーンが存在する。有名なところではデイヴィット・ベネターが著わした『生まれてこないほうが良かった: 存在してしまうことの害悪』で語られる反出生主義がある。彼はよく誤解されるのだが、生まれてこなければよかったという親ガチャを外したメンヘラの代弁をしたわけではなく、「人類は一刻も早く絶滅すべきである」というとんでもなくデカい理論なのである。

 彼は著書の中であらゆる反論に対して論理的で完璧な回答をしており、彼の論理は正しいのである。ただ、彼の論を真に受けて生殖活動をやめたグループは勝手に絶滅して、ベネターの言うことを聞かなかった人たちが生き残ってしまい、ベネターの理論は誰の記憶からも抹消されることになるだろう。だからこそ僕は自分が正しいと思う万人はできるだけ子孫を残すべきだと考えている。

あなたは旧約聖書を信じていますか

 私は信じていません。あなたは信じていますか?

 実は私、なぜ浮気をしてはいけないのか一切理解ができないのです。あなたはなぜ浮気がいけないと思うのでしょうか。論理的に説明できるでしょうか?

浮気がこんなにも悪とされている要因は旧約聖書では

 現在浮気に対して厳格である社会が形成された原因は旧約聖書にあると思う。旧約聖書では、モーセくんがシナイ山に登って神に律戒を授かったが、これがかの有名なモーセ十戒である。

主が唯一の神であること
偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)
神の名をみだりに唱えてはならないこと
安息日を守ること
父母を敬うこと
殺人をしてはいけないこと(汝、殺す勿れ)
姦淫をしてはいけないこと
盗んではいけないこと(汝、盗む勿れ)
隣人について偽証してはいけないこと
隣人の家や財産をむさぼってはいけないこと

こんな感じの行動指針が書いてあって、これを破ると神からの罰を受けるという設定になっている。そしてこの十戒は現在のキリスト教イスラム教とユダヤ教に大きな影響を及ぼしている。それらの宗教信仰する世界で60%弱の人達は「姦淫してはいけないこと」を根拠に浮気をしてはならないという概念を持っている。そこまではいいのだが・・・

そもそも日本古来には浮気という概念はなかったのでは

 一方日本におけるメジャーな宗教といえば仏教と神道であるが、もちろん両者とも教義にモーセ十戒は関与していない。そもそも元来仏教において婚姻は煩悩に起因することで、俗世間におけるイベントと分類されている。そのためあまり婚姻に関する裁定がなく、それぞれの地域の慣習に従うこととなっている。もちろん浮気・不倫を禁止することもなく、現に貴族は正妻以外に多くの妾を持っていた。(一応邪淫として扱われる可能性はあったけれど、そこまで問題視されてこなかった。)

 そして神道モーセ的には問題児。創世神が国を作る時にabnormal sexするエロ猿。そんなわけで性への忌避感や罪悪感は一切ない子孫繁栄に重きを置いているためムラ社会で適当にまぐわった。そんな二者が神仏習合を受けた際に、婚姻に関する規定は神道が優先されたのである。それが仏教伝来以降の日本の婚姻に関する価値観であった。そもそも婚姻というイベントをそこまで盛大にやらないし、大きな出来事ともとらえてなかったのだよ。時代劇見てて婚姻で大はしゃぎする家来とか見たことある?ないでしょ?

資本主義による攪乱

 そして旧世界の人間に日本が発見されてからというもの、交易をする度少しづつ西洋の考えが伝わってきたとは思うが、劇的な変化を生み出すことはなかった。主に幕府がキリスト教を弾圧したことに起因する。

 大きな転機は1970年代から興った挙式の西洋化にあると考えている。ブライダル業界という聳え立つクソが「結婚式ビジネスやれば儲かるんじゃね?じゃあ日本人に『チャペルで結婚式やるのが憧れ~』っていう価値観を植え付けようぜ!」とか言い出したのである。死んでくれ。そして西洋式の結婚式では、信仰もロクにしていない夫婦が永遠の愛と忠実の誓いをさせられ、いつの間にか浮気が悪であると日本の常識に刷り込まれかけている刷り込まれかけているという点がポイントで、今現在全員が全員、チャペルでの結婚式に憧れを持っている訳ではないし、それに伴う価値観の植え付けという洗脳も受けていない人もまた多い。結婚式やって改めて思ったけどやっぱブライダル業界はくたばれ。

寛容な人と厳格な人が混在する、カオスの状態である

 厳格な人間が大多数で、当然のルールならそれでいいんだ。でも現代日本はそうではない。姦淫に対して寛容な人と厳格な人が混在していることが大きな問題点である。そしてそのカオスの状態では厳格な人の方の意見が通りやすい。不幸にもSNSがそれを加速させている。別の例で例えれば、殺人を犯した犯罪者に死刑をという厳格な意見は耳触りが良く非常に通りやすいが、被告人に更生するチャンスをという寛容な意見はなかなか受け入れられない。そういうわけでこの文章を書いたのである。寛容側の人間として、ある程度まとまった意見を呈示したかった。如何だろうか。

結語:どうして禁じられているかを再考してほしい

 何のためにそのルールはあるのか。なぜそのルールができたのか。あまりそこに着目する人は多くない。多くないにもかかわらず、「なんか嫌だから」で人のことを攻撃してもよい、という風潮があるというは非常に不愉快である。アブラハムの宗教を無意識に信仰している人間が、自分は影響を受けていないと思いながら姦淫している者を攻撃している現状がある。気持ち悪くない?

 私にとっては、浮気してはいけないということと、十戒の中の「偶像崇拝の禁止」は同列程度に思っている厳格派は想像してみてほしい。周りの人間がアブラハムの宗教を信仰していないにも関わらず、仏像を拝んでいる人に石を投げる光景を。

 あなたなりに「こういう理屈で動いているからこのルールを順守し、適用しているんだ」という忠義を堅持してほしい。その結果、例えばムスリムに改宗するのは自然なことと思う。

supplementary: 寛容であることのメリット

 ではなぜこんなにも寛容であるべきと言わんばかりの文章を書いているのか。僕が楽しみたいというわけではない。寛容であることのメリットは恋愛の競争がより激しくなることにある。浮気した際に「この相手のほうが良いな」と思うことは当然出てくる。しかしこれは良いことではないか。相手に飽きられないように恋人に尽くすようになったり、より自分を高める方向に努力できる人間が恋人にふさわしい。少なくとも、浮気しないように監視することに注力する人間よりよっぽど素敵だ。また、自由競争である中で相手が自分を選んでくれた幸福は厳格であるより強いだろう。もちろん、遊び歩くことは楽しいと感じる人は多いので、人々の楽しみを奪わないことも文化として重要だと考えている。

よくある反論:浮気をすると信頼を失う

 信頼の喪失という観点は浮気は悪とされる前提があるから信頼が損なわれるだけで、根本的な論点にはならない。

定型的な発達障害という矛盾

 一昨日、このような趣旨の質問されたことがあった。「君の罪悪感の欠如はASD入ってるからじゃね?ASDと診断されるほうが倫理観ナシナシマンとして扱われるよりいいでしょ。」 これへの賛否はともかく、ASDと診断されることで安心を得られる人がいることは確かである。しかし問題としてASDは決して軽い障害ではない。ではなぜ安心感を得られるのか。

 ASDよろしく、先天性の発達障害の患者(僕も多少その要素があるのだが)は自分が普通でないことに気づいているものである。できて当然のことができない、自分でも簡単なことと思っているのにできない、それなのにミスを繰り返してしまう、周りの人は難なくこなしている、それゆえに孤立しているーー(少なくとも当人の認知からすると)自分の「普通」ではない特性のせいで人生が上手くいっていないのである。そのため「普通」に対して過剰に固執している人が多いのではないかと考えている。

 そして最も重要なこととして、発達障害と診断されることは自分の障害に対して名前を与えられる、つまり一般性を見出すことができるのである。メジャーな定型発達、いわゆる「普通」のジャンルには入れなかったが、自分はサブジャンルであるASDであり、ASD患者の中では「普通」なのであると患者は解釈することができる。このASDという肩書があれば自分の行ってしまったことは当然であり普通なのだと安心できる。僕はこれを個人的に定型的な発達障害という一見矛盾した名称で呼んでいる。

 また周囲の理解が進みやすいのも、「定型的な発達障害」として扱えるからなのではないか。これを利用(僕は悪用だと思うが)してパーソナリティや能力の欠如が原因の社会的な障害に発達障害という間違ったラベリングをして、問題をうやむやにして平和に暮らすことができるし、実際にそういった現象は起きていると思う。正しく鑑別することが難しく、また発達障害(特にASD)の定義に関して個人的に懐疑的な部分があるため一概に臨床の医療に責任があるとは思っていない。(この段落について筆舌しがたい。これで理解されたらとても嬉しいが。)

 これからの展望としては、これまでグルーピングされてこなかった障害に関して理解が深まり、さらに細分化されたその病状に適した名称がつけられ、より多くの患者を安心させ、生きやすくすることができるであろう。僕としても非常に良いことだと思う。

 この現象は他の疾病にも当てはまるのではないか。僕の経験からお話すると、ある日左下半身が徐々に痺れていき熱も37℃中盤あった。当時研究室で作業をしていたが、発がん性のあるクロロホルムを毎日1-2L使っている状況の中で、左下肢に炎症などの外傷もないのにこの症状が出たということで非常に不安になり、周囲の相談もあり救急車を呼んだ。脳や脊髄に異常を来たしたのではないかーー。結果、診断は椎間板ヘルニアによる下肢の痺れと風邪の複合であった。風邪はともかく椎間板ヘルニアはそう軽い病気ではないが、何か得体の知れないモノに侵されているという恐怖からは解放された。皆さんは似たような経験はないだろうか?

 ちなみに冒頭の質問に対してはこう返答した。「ASDであると診断されるということは罪悪感の欠如以外にASDの要素がいっぱいあるって認められたってことでしょ。嫌だよ。」と言った。僕は見栄っ張りなので自分がなるべく高く評価されたいのである。

パリvs東京

 Bonjour! ブリュッセルに3泊、パリに3泊してきました。その中でこういうところいいなあだとか、こういうところいいなあだとか、こういうところが違うなあと感じたのでまとめてみました。

パリのほうがいいところ

  • 食事のレベルの高さ

 どの店を訪れても外さない。流石にマクドナルドは微妙だったが7日間パリベルギーにいて全て美味しかった。東京や大阪でのハズレ遭遇率より圧倒的にいい

  • 売っている服がお洒落

 主観です。日本で見るよりも「うわこの服いい!この靴"買い"だ!」と思う頻度が高かった。買っちゃった。

中世から残る街並みが非常に綺麗。また美術館館が林立していて値段もリーズナブル。ただし植民地支配の恩恵という印象を拭えないので手放しにいいと称賛できないが。

  • 街がコンパクト

 案外パリ市は小さい。少なくとも東京23区や大阪24区よりずっと小さく、どこに行くにしても早い

  • バスメトロ国鉄の切符が共通

例えば乗り換えても乗り換えてもパリ市内なら約300円で済む。そのため東京より乗り換えもスムーズで案内もシンプル。

 観光客にはよかった

  • 肉と乳製品とパンのレベルが高い

 狩猟民族の魂を感じた。特にクロワッサンと生ハムが激ウマ。オススメできる。

  • 親切

 パリジャンパリジェンヌは鼻につくとは聞いてたが全く感じなかった。お店や飲食店でオススメを聞くとジョークを交えながらゆったりとした聴き取りやすい英語で対応してくれる。あとめっちゃ挨拶大事にする文化。そもそもパリが温かいというか東京が冷たい。

東京のほうがいいところ

  • 交通規則に律儀

 運転はかなり大人しく、安全に気を使う。パリはとんでもなく自分本位で運転が荒々しい。信号機も親切なのは日本。パリには青の点滅がなく急に赤になる

  • 公共施設の運用安定性

 例えばフランスベルギーは急に電車が運休する。電車をホームで待っていて事前情報全くなく、到着予定時刻になった途端に「当該列車運休」のアナウンスが入る。焦るからマジでやめてくれ。

  • 野菜果物海産物が美味しい

 日本の農業、水産業、物流のレベルの高さを感じた。パリもブリュッセルも日本に比べると野菜の種類に乏しく、トマトとリーフレタスがメインでしょうか。

  • 治安がよく街が綺麗、トイレがたくさんある

街灯がたくさんあり、治安もいい。女が夜道を一人でふらふらと酒を煽りながら歩ける国の偉大さを感じた。特にパリブリュッセルはスリや置き引きが非常に多く、また物乞いや薬物中毒者も町中に溢れている。息苦しい。トイレも駅やスーパーなどで普通に使えることは恵まれていると感じることができた。

どちらとも言えないもの

  • 歩行喫煙の多さ

 フランスは喫煙に年齢制限がない。路上で吸っていてもなんら問題ない。デパートの集まるような街でも副流煙をよく浴びる。電子タバコもいたが、日本より紙タバコの割合が多い印象。ただ町中に灰皿が至る所にあるので街は吸い殻だらけになっていなかった。

  • ヨーロッパはお酒が安い

 500円くらいで買えるワインがあり、存外美味しい。日本の酒税が高いので感覚が麻痺しているが、ソフトドリンクより酒のほうが安いことも珍しくない。ただ酒に税金かけるのは個人的な意見では賛成なのでどちらとも言えないの項にしておく。

  • 労働がかなりマイペース

 かなりマイペース。衝撃的だったのが、ルーブル美術館のショップにてレジが3つだけある状態で客もまあまあ並んでいるのに、会計担当の女店員2人が自撮りして楽しんでいたこと。働くことは店員に主体があるという文化が根強く、よくも悪くもという感じだった。

  • 物価はそこまで高くなかった

確かにランチに1500〜2000円くらいかかるが、その分東京の2倍くらいの量出てくる。百貨店も行ってみたが、日本規準でもお安くおしゃれな服を購入できた。

  • 東京夏暑い湿気多い、パリ冬寒い長い

 どうしようもないですね。僕は冬のほうが得意なのでパリのほうが合うでしょうか

総評

 総評としてはどっちが良くてどっちがダメという印象は受けませんでしたね。自分が合う国に行く感じがちょうどよいのではないでしょうか。僕は東京帰ってきて蒸し暑さにドン引きしているのでブリュッセルにもうちょっといたいです。(本当はアントワープという都市のほうが好みでしたが)